赤穂義士討入り300年目に

2001.12.14

今年2001年は,1702(元禄15)年の赤穂浪士討入りからちょうど300年目だという。毎年この時期になると,「本懐成就」した「義士」をしのぶべく,どこからともなく話題にのぼるものだ。

播州赤穂城主・浅野内匠頭が,江戸城中・松の廊下で吉良上野介を斬りつけたことから,幕府から切腹とお家断絶を命じられた。それに対する報復が討ち入りだった。したがってこれは,「仇討ち」が法的に認められていた当時にあっても,非合法行為なのだ。「忠義」という儒教イデオロギーを持ち出しても,結局は法治の秩序に優先されることはなかった。現代流にいえばテロなのだ。

しかしながら,城を明渡した浪士たち(ちなみに「義士」・「浪士」を英訳すれば「voluntary solider もしくは volunteer」となり「義勇兵」と同様であることが解る)が討ち入りを果たすまでの経緯とともに,吉良上野介が浅野内匠頭におこなったところの,今日でいうイジメについても,語り継がれてきた。最近の歴史家の研究によれば,幕閣有力大名の種々の思惑や製塩業で潤っていた赤穂藩へのねたみもあったとされる。

だが,彼等の所業を語りついできた江戸の人々の意識における赤穂藩は,現代人にとっての遠い外国と同じようなものだった。それでも彼等を「志士」・「義士」と呼び,シンパシーを寄せてきた。もちろん時の幕政批判の意味もあったが。また今日まで語り継がれるのは,法秩序のもとで実現されることのない「正義」が,依然としてあることによろう。

その評価はともかく,少なくとも,9月11日のニューヨークおよびワシントンへの攻撃事件を,ただ「テロ」と呼び,盲目的かつ一方的に“非難”するばかりで,その背景に思いを致そうとしない現代人よりも,赤穂浪士を語り継いできた先人たちは,ものごとの現象だけでなく,その背景や本質までを理解する力において,まさっていたといえるのではないか。

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