書評『あがぺ・ボランティア論』

1998年 1月21日

 阪神淡路大震災に限らず,永自身の経験したボランティア活動を,真宗寺院の子らしく,宗教的観点から宗教的言辞を用いつつ整理したものが本書の中心である。これにキリスト者としての助世夫のそれを併せて構成されている。中には,自己満足で“熱心”に活動する人が周りを潰していくことや,行政によるボランティアのコントロールといった,今日ボランティアが直面する問題についても言及している。また,施しという形を取って,宗教が持つ上下関係を取り結ぶ作用を意識し,ボランティアという切り口から日本の宗教をみるという視点は,宗教(者)への現状批判としても意義があろう。

 蛇足乍ら,ついでに言わせてもらうなら,東洋政治思想史上には,孟子の「惻隠の情」というのがある。自らを善なる行動に駆立てる心情を端的に示したものではあるが,これとてそれ以上のものではない。常にこれが再生産され続けるというのでは,説得力を持たないであろう。

 こうした見方でボランティアを語ることが適当か否かは,十分に検討する必要がある。

 少なくとも今日,ボランティアに参加する人が何等かの宗教の篤信者であるという事は,ごく少数の例外を除けばほとんど無いのだ。ただ,自らをボランティア活動に駆立てる動機を説明する方便にはなろう。永にとっての仏教的言辞がその例である。問題はそうして行われた活動がボランティアと呼べるか否かである。仏教でもキリスト教でも,或は他の宗教でも,家族・地縁といった枠を越えたレベルでの愛や喜捨などを説く。これは,自らと相手が同一宗教下にあるという同胞意識−価値観やイデオロギーを共有した存在であるという認識−によるものであるが,そうでない場合は,自らとの間に主観的に近似性を見出せる存在に対して行われるものである。しかも後者の場合には,意識するか否かに関らず同化作用が必然的に働き,喜捨・施しは,その権力作用の物質的根拠となるものである。

 こうしたことが,本来の名称たる慈善(charity)の名で呼ばれ,その名の下に行われる限りは問題はないだろう。だがひとたびボランティアの名で行われると,ボランティア参加者が無意識のうちに,自己満足や,自らの価値観の押付けに陥る危険をもたらす回路の一つを形成する。相手の中に人間的尊厳を見出すという場合,宗教的慈善であれば,自己と同様のそれを相手に投影すれば足りようが,ボランティアの場合そうはいかない。相互が多様性の中に存在することを確認することを前提に成立するものである。

 人間のうちにある本源的要求−生きること,人に認められることなど−は,人間自身が他者に対して働きかける中で実現されるものである。ここでいう他者とは,他の人間だけでなく,物質・自然を含めた一切の環境のことである。こうした中ではじめて自己実現は可能となる。他者即ち環境に関る場合,いかに関るかを問うのが主体性である。同時に環境と主体が相互に規定する関係にあるとの自覚を求めるものでもある。

 ボランティアを宗教的言辞で語ることで抜け落ちてしまうものは何か。そしてそれがもたらすものは何か。こうしたことを考える契機が今求められている。そのための万全を備えた良書を待望するよりも,既存のものを教訓化し乗越えることが何よりの課題なのだ。

  (永六輔・助世夫健著,光文社 1997年12月 1000円)

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