如何なる戦争協力もNo!
「動かざること山の如し」でいこう

September.17.2001

9月11日のニューヨーク及びワシントンの事態に対して,私がとるべきと思う態度を端的にいえば,「如何なる戦争協力もNo!」となるでしょう。

1)今回の事態は「テロ」か「戦争」か?

事件当日のNew York Times (web版)の見出しは「U.S. Attacked」,Washington post(同)は「America Attacked」と,いずれも「攻撃された」事実を,ありのままに報じようとしていました。日本では今回の事態を,「テロ」とよぶことに疑問を抱かない人が多いようですが,少しよく考えて下さい。

辞書的な意味はともかく,「テロ」とよぶか「戦争」とよぶかは,かなり政治的な問題で,事実認識とは別の次元の問題です。「テロ」と規定すれば“犯罪”とみなせるため,その凶悪さを強調して宣伝しやすくなるだけでなく,米国政府に通常の犯罪と同様に処罰する権利があるとみなさせることができます。当然にも,このような制裁権を,アメリカ帝国主義権力者に附与してはなりません。

一方,「戦争」と規定すれば,相手を自国の国内法で処罰できる存在とみなすことができないばかりか,自国政権と渡りあう存在として認めざるを得なくなります。戦時国際法という面からいえば桎梏が増える面もありますが,ここでは,アメリカの政権当局者が使う特別な用例として,自らにとって対立的・敵対的な勢力の行動を直接担うだけでなく,支援・支持する勢力・国家などへの攻撃を正当化することを狙ったものがあります。要は戦争正当化のレトリックとして,「テロ」・「戦争」を意識的に混用しているのです。一連のブッシュ大統領の演説からも解るでしょう。

素朴に「犯人」への憎しみや「犠牲者への哀悼」の気持ちをもった人々に,ナショナリズムを鼓舞し,戦争に向けた挙国一致体制を作り,自らの政権基盤の強化に利用しているのが,ブッシュ政権に他なりません。日米安保=軍事同盟のもと,小泉政権はこれに追随しています。

2)「民主主義」が生み出す戦争

「民主主義」(カギカッコがついていることに注意してください)を標榜しているアメリカも,ヴェトナム戦争や,ペルシャ湾岸戦争をみても解るように,決してそれにふさわしい存在でないことは明らかです。またそのような理念のもとに今回の事態を非難することが,どれほどの有効性と意味をもつのか,考えていただきたいと思います。

冷戦後の今日,アメリカの敵は,ソ連邦という体制を異にした国ではなく,政治的・経済的利害だけでなく,宗教・価値観を欧米的・キリスト教的なものとは異にした存在であることを,忘れてはならないでしょう。イスラム原理主義者に限らず,世界中で多くの人が,欧米的・キリスト教的価値観とは異なった中で生きていることは解るはずです。今,アメリカは一切の国家的利害に不都合と映る存在にだけでなく,こうした存在にも広く攻撃を加えようとしているものであると,いわねばなりません。

イスラム教徒は,アメリカ帝国主義が生まれてくる遙か以前に,十字軍(crusader)の被害を被っています。歴史学的にはもはや単なる侵略者・略奪者でしかなかったことが明らかになっているにもかかわらず,欧米などキリスト教圏ではいまだにこれを「救世主」の代名詞にしています。

こうした欧米的・キリスト教的価値観は,近代に入り,「合理性」という粉飾をこらし,「国際法」という正当化論理を用い,さらには今日,「グローバル・スタンダード」であるかのごとくふるまっています。これと同根といえる「民主主義」を振りかざしても,価値観の一方的な押しつけになるばかりか,民族・宗教紛争が世界各地で相次ぐ,冷戦後の今日,結局は,新たな「文明の衝突」を惹起することになりかねません。

したがって,今回行われた攻撃を,盲目的かつ一方的に「テロ」として非難することによって,アメリカ帝国主義権力者や,やがて現れるであろう戦争成金の如きを利するだけでなく,私たちが暮らす社会を,生活習慣や価値観の異なる人々に対して,不寛容で排他的なものにしてしまう危険があるのです。

一方,生まれ育ち今なお暮らす地が絶え間ない戦場となってきた,パレスチナ人民にとっては,今回の攻撃に歓喜し快哉を叫ぶことは,永年にわたる艱難辛苦を強要してきたアメリカ帝国主義(イスラエルをその「傀儡国家」と規定するかはともかく,アメリカがイスラエルを支援している限り中東での戦争が終わらないのというは,間違いないでしょう)に対しての,ごく自然な反応というべきでしょう。

3)日本の戦争協力もNo!

日本政府もこうしたアメリカの戦争遂行への協力を表明しています。これに疑問や批判的見解をもつ市民の声を,早くも無視・圧殺しようとしています。例えば,9月16日の神戸での「タウンミーティング」を伝える『朝日新聞』の「「塩爺「それが言いたくて来とるのや」 タウン会合ヤジに」,『神戸新聞』の記事「神戸でタウンミーティング 復興、雇用で質問相次ぐ」及び閣僚にやじ、会場騒然」(いずれもweb版 2001/09/17付)の内容と論調を,厳しい姿勢で見る必要があるでしょう。とりわけその場において示された,震災復興や雇用の問題をないがしろにする一方で,「テロ」報復支持を早々と打ち出す政府の姿勢は,当然にも弾劾されてしかるべきでしょう。

また,具体的な対米協力内容を決める前に,早くも,私たちの人権の蹂躙につながる「有事立法」制定策動がなされています。安保条約が日米軍事同盟であることは今更いうまでもありませんが,それを口実に,なし崩し的に,戦争の一方の当事者とされていくことに,もっとも厳しい目を注ぐべきでしょう。

4)私たちの足元から見ると…

今回の事態で「罪のない市民が殺された」といういい方をよくします。残念ながら,これを全面的に正しいということは困難です。確かに,犠牲になった「市民」は「テロ」の標的にならねばならないような極悪非道なことをしたわけでもなければ,「戦争」においても非戦闘員である以上,彼らへの攻撃が正当化されるものではありません。

しかしながら,20世紀に入ってからの戦争は,とりわけ「世界大戦」とよばれる2度の大規模な戦争において示されたとおり,戦争の発端となる当事国以外にも,直接的・間接的な形で多くの国家を巻き込んでいくとともに,こうした国々では,戦争遂行のために,国民の身体・生命・財産などの「人的・物的資源」を根ごそぎ動員し,有無をいわせず戦争へと駆り立ててゆく「総力戦」体制をとることを特徴としています。実際の戦闘においては,こうした体制そのものを解体させない限り,相手を打ち負かせたことにならないのです。これが種々の無差別攻撃が行われるゆえんです。

こうした「国家総動員体制」は,実際に戦争に突入したり,有事法制が発動されたりして初めてつくられるものではなく,既に私たちの日常の中に準備されているのです。

艦船や航空機を造るだけが軍需産業ではありません。今日ではハイテクやIT技術もまた不可欠となっています。軍需利用可能な広範な産業の一切を含めて,実質上の軍事力を構成することとなり,これら諸産業に従事する労働者・市民も戦争協力者ということになってしまいます。私たちの生活に必要・有益なものと共に,職場で生産したものが,世界のどこかで殺傷に使われる可能性があることから,逃れられないのです。

神戸もいわば「軍需産業」の企業城下町という側面がある以上,決してこのような戦争協力体制とは無縁とはいえず,こうした情況に無批判・無自覚に盲従するならば,世界のどこかに敵をつくることになってしまいます。逆に,そうであるからこそ,こうした地から「如何なる戦争協力もNo!」という姿勢をとることの意義は,大きいといえます。

特別なことは何もしなくても,或いはできなくても,それは決して無力なのではありません。このように「如何なる戦争協力もNo!」という姿勢を徹底してとり,「動かざること山の如し」を貫くことが,至高のヴォランティア・スピリットであるといえるでしょう。

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