上野さん,そしてその後

96年の冬,国会議員会館前でのハンストを闘った上野泰昭さんのその後を紹介します。

お断り:上野さんが経営するスナック「パルレWAうえの」は2010年11月頃閉店しました。

☆前史

本題に入る前に,被災してからハンストに到るまでの上野さんについて簡単に紹介しておこう。

経営していたレストランが,震災で全壊となり,食器だけが残された。店を失っても借金は残り,返済のあてはなく,保証人となった知人にも累が及んだ。しかも働き盛りの年齢の自営業者には,公的な援助策は絶無に等しかった。こうした中で,「自助努力」だけが当然のこととばかりに要求され,生活再建の展望は開けないままであった。


店を失った上野さんが,残った食器を被災者に配布しようとしたことなどを伝える新聞。

震災の年,「そして神戸」という被災者団体つくり,歌手・前川清を呼んでの被災カップルの結婚式を企画したり,95年の「紅白歌合戦」で,「そして神戸」を大トリにしようとする署名を呼びかけたりした。こうして上野さんなりのやり方で,被災者運動に取り組んでいった。「紅白」の一件は成功したものの,広範な被災者間・被災者運動内での結束をつくる過程で,上野さんの行動は十分な理解を得られず,呻吟することとなった。


前川清が被災カップルの結婚式に無償出演することなどを伝えた新聞。

☆ハンスト突入

震災以来,多くの被災者が団体を組織し,何度も上京して,生活再建支援を要求した。国会議員に公開質問状を送るなどしてきた,96年夏,大蔵省前での座り込みに続いて,同年11月末,ついに上野さんたちは,国会議員会館前でハンストに突入した。


その時の情況はイラストをクリック!

☆あらたに:「いのち・夢・くらし」

ハンスト貫徹後も引き続き,運動に取り組むが,そうした中でも,仮設住宅での「孤独死」は後を絶たないなど,生活再建の展望を見いだせない被災者の情況は依然厳しいものであった。とりわけ家庭や社会を中心的に支えるはずの同年代のそれに深く心を痛め,人間としての尊厳を奪われ,あまりに軽視されている「いのち」が,上野さんの関心の中心となり,それを通して社会や政治のあり方を問いただしていった。こうした歩みは,決して運動として力を生み出したものではなかったが,一人の“メシ屋のオヤジ”が,震災を契機に覚醒し,翻身していった過程として,記憶しておきたい。

被災者の生活再建が,新世紀になっても達成されていないという,異常な情況が,今日なお続いているが,月日の流れは,被災者・支援者の分け隔てなく一人一人に変化をもたらした。上野さんも当然それを経験した。最大のターニングポイントは,上野さんが,早くも50代で「おじいちゃん」になったことだ。震災以来,人命の余りの軽視を痛感し続けてきた上野さんにとって,この新たな生命の誕生は,それまでの闘いをふり返り,自らの再出発に向かわせた。

新しいスタイルの語り合いのスペースとして「パルレWAうえの」を開店させ,政治家の政治倫理・姿勢を問いただしたり,市民の政治参加・発言を呼びかけたりしている。


サラ金から借金して,初孫の写真を表紙にした冊子『政治倫理を問う』を,公開質問状として発行,全国会議員に配布した(98年11月)。これ以前にも何度も議員への質問状を出した。

☆「パルレ WA うえの」開店

98年3月,生田神社近くの雑居ビルの一角に,スナック「パルレWAうえの」を開店。奥さんと2人で深夜までがんばる日々となる。同年1月にやっとのことで利用出来た,無担保・無保証人の融資制度で1000万円を借りてのスタートであった。やがて,震災以後初めて従業員を雇い入れ,平日は3人で店を切り盛りしている。店は上野さんが目指したように明るく元気に語り合う場となっている。というのも,上野さんのキャラクターも相まって,個性的なお客さんに恵まれたことによるものだ。

「パルレWAうえの」の場所:
 神戸市中央区下山手通1-13-12 ゼウスタウン1階
Tel/Fax: 078(392)5017  
JR・阪急三宮駅から生田新道に出て,東門街に入って1つ目を左折,
角にあるビルに沿って右折した所に入口があります。

☆これから


新たな本を上梓すべく準備中。暇を見つけてパソコンに向かう上野さん。

2001.1.26

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