ヴォランティア考
〜震災を通してみた過去・現在・未来〜

1996/12/12     

 ヴォランティアについて考えるにあたって,まず第一に,volunteerという語が,voluntary(自発的な)に由来する以上,「自発性」が定義上第一の条件であることはいうまでもない。だが,この「自発性」をもって,どのような情況で,何をどのようにやるのかということが問題にされなければならない。

【歴史のなかで】

 本来,volunteerという語には「志願兵」・「義勇〔軍〕」という意味がある。今日としては近代史用語といった方がいいかも知れない。が,この語がかかる軍事的色彩を帯びたものであることを知っておいて損はないだろう。第一次世界大戦の際,ヨーロッパの交戦国では,戦線の膠着と戦争の長期化が進む中で,戦力の補充を青少年の志願兵に頼るようになっていった。彼らが志願するや,職業軍人や徴兵で招集された兵士の下に位置づけられ,彼ら以上に消耗品扱いされていったのだ。映画にもなったレマルクの『西部戦線異常なし』に描かれた情況がそれである。この20年程後のスペイン内戦で,ファシズム勢力の支援を受けた独裁者フランコに抗するべく,知識人の呼掛けで世界から集まったのが義勇軍であった。前者が,専ら自国政府の戦争遂行という政治目的のためであるのに対し,後者は参加者各自の思想と主体性に基づくという点で,言い替えればその政治的性格において,決定的な差異がある。

 「有史以来の大惨害」とされた1923年の関東大震災では,被災者には国内外からの様々な形での救援,息の長い援助が寄せられた。明治期以来救貧事業などで実績を持っていたキリスト教などの宗教的組織の活躍*1,各地からの「義捐金」*2の類,即ち様々な慈善事業・行為が,彼ら被災者の生命維持・生活再建に寄与したのである。    

【ヴォランティアの定義】

 前置きが長くなったが,ヴォランティアの定義をどうするかという問題に入ろう。もっともすぐに「ヴォランティアとはこのようなものである」というものが出てくるとは思えない。こういう場合,いきなり「ヴォランティアの定義は何か?」と考えるのではなく,これと類似,関連していると思われるものと比較して,共通点・相違点を挙げていくことが,答えに近づく方便となる。震災だけでなく,福祉の分野でも伝統的に大きな位置を占めており,今日ヴォランティアとその対象がかなり共通している,charity(慈善)と比較してみよう。これが宗教的性格をもった概念であることは多言を要さないであろう。即ち,チャリティーは,本質的には自らの信仰・信条などとの関係において行われるもので,その実践行為は施し・喜捨という意味を持つ。従って,受け手との関係のあり方は必ずしも問われるものではないということになる。信仰や信条の共通性で結び付いているわけではない,あるいは特定のそれをもっているわけでもないヴォランティアの場合,これとは別なところに存在理由を求めなければならない。別なところとは,まず第一に活動の対象となる相手との関係をおいて他はないであろう。すなわちヴォランティアは受け手たる相手との心の通わせあいが問われてくるということである。如何に相手の立場・情況を理解・共感し,自らを同じ一個の人間として,その相手の立場・情況に,自らを投げ込むことによって,立たせ共有しようとすることで,実現可能となるものである。さらにその過程でヴォランティアは,自他における多様性認識を育てていくこととなり,ヴォランティア間同士の心の通わせ合いもまたそれを助けるものとなるというような関係を取り結ぶことが出来れば,一層価値あるものとなるであろう。このようにヴォランティアとチャリティーの違いを考察することは,ヴォランティアの現在における到達点を認識し,将来への方向性を展望する一助となろう。

【ヴォランティアの現況】

 以上のように,ヴォランティアの明確な定義は難しいが,少なくとも,自発性が第1の要件であり,相手との心の通わせ合いがこれに続く(べきである)ことはご理解いただけたことと思う。次いでヴォランティアの現状をみていきたいと思う。これは現状固定的ヴォランティアと現状変革的ヴォランティアの二つに大別できる。前者は,受け手の即時的ニーズに応えることが目的となり,その原因・根源にまでは手をつけず,ややもすればこれに思いを致すことすらしないものである。例えば,アメリカのホームレスに対するヴォランティアの場合,競争社会の勝者による敗者への施しという性格を持つといわれる。ここではホームレスをしてホームレスたらしめている情況を固定化,再生産する方向性を持つことは必然的であり,ヴォランティアがステイタスになるというのも,彼らが勝者であることを自他が確認することなのである。また,昨今の日本で目立つのが行政の下請け的ヴォランティアである。とりわけ,福祉関連の分野で無視できないのは,高齢化社会を迎えつつある中で,福祉にかかる予算と人員を切り詰める一手段として,無報酬であるヴォランティアの活用を策していることである。もちろんこうした分野に従事する人の多くは何らかの資格を持っていたり,研修・教育を通じて専門的な知識・技量を備えていたりするものだ。また大学や専門学校の社会福祉関係の課程・講座で学ぶ人も増えている。こうした人達を差し置いて(場合によっては彼らの職を奪うことに加担することでもある),その少なからざる部分が素人・非熟練者であるヴォランティアが占めるならば,「ヴォランティアがプロを喰う」という情況が生まれてしまう。これでは受け手を含めた三者全てにとって不幸ではないか。ヨーロッパの一部の国では,良心的兵役拒否者に代替措置としてヴォランティアを「義務づけ」ているが,これもまた同様ではないだろうか。*3

 これに対して,後者,すなわち現状変革的ヴォランティアは,受け手のニーズに応える過程で,その原因・根源となる情況を分析し,これを変革する志向を持つものである。これこそこれからのヴォランティアに求められるものではないか。  

【「ヴォランティア元年」は本当か?】

 そのように考えていくと,社会運動の一種としての側面を必然的に持ってくる。ではヴォランティアの運動としてのあり方はどのようなものであろうか。先程同様共通点と相違点を挙げていく形で考察してみよう。労働運動や学生運動などは,日常から苦楽を共にしている仲間,同じ立場・利害にあること,更に場合によってはイデオロギーを共有して形成されるという点で一定の均質性を持ったものといえる。市民運動では特定の課題に対する共通認識,住民運動では地域的課題に対する利害・認識の共有が成立要件である。その点で均質性は相対的に低いといえる。これに対してヴォランティアの場合かかる均質性は極めて低く,むしろ多様な参加者をもって構成されている。またこのことがヴォランティアを特徴づける要素となっている。こうした自らの多様性を,相手の多様性を我がものとして受け止める前提とすることが,社会運動としてのヴォランティアの出発点となろう。運動というからには,こうして受け止めたものを如何にして力になるものにするかという方向性を求めねばならない。具体的・個別的課題への取り組み方や,組織のあり方といった議論は,こうしたものを踏まえない限り,空疎で不毛なものに堕ちてしまうであろう。

 昨95年を「ヴォランティア元年」とする言い方がある。しかし,ヴォランティア活動参加者の激増というだけでは単なる一時的現象にすぎず,将来歴史として1995年という年を振り返った時,これを「元年」と称する意味はないであろう。ここで否定的情況を変革する方向性を持ったヴォランティアが出現し,定着をみるならば,まさしく「ヴォランティア元年」となるであろう。かかる意味において今まさにヴォランティアを巡る議論は,歴史的分水嶺にさしかかっている。

 以上は,私が昨1995年秋以来,断続的ながら,仮設住宅の訪問を中心とした「週末ボランティア」に参加しての体験をもとに考えたものであるが,その前提ともなる感想は以下のようなものである。まず第一に,自治会の組織化など,仮設住宅住民自身がお互いに助け合う契機となるのみならず,市・県更には国に対して自らの声を挙げられるようにすることに意義を感じたのである。それは放置の口実としての「自助努力」ではなく,自らの主体性と人間としての尊厳の回復をかち取るという意味においての真の「自力更生」のお手伝いができるということである。第二に,学生・主婦・サラリーマン・他の仮設住民など,年齢・職業・性別などの様々な人々と接していくことを通じて,人生についていろいろと教えられることが多いことである。被災者・仮設住民をかかる情況におく体制への怒りを新たにし,震災で一切を失った中で夫婦の絆を深めた話に感動し,孤独と貧困の中で一日を過ごす住民の話にどう答えていいか解らなくなる,そうした中で,訪問した世帯の数だけあらゆる種類のドラマがあることを感じるのである。だがドラマはそこだけにあるのではない。時には,参加する中で変わってゆく仲間の姿に,活動を通じて知り合った人たちの中に見いだされるのだ。

追記:

去る1996年12月1日「災害・人間・復興全国交流集会」の分科会『ボランティア活動は何を創り,課題は何か』でヴォランティアの定義と将来像が議論になった。そこでの私の発言が,説明不足で,充分に意図が伝わっていないと感じたことから,私見をまとめることにした。その後戴いた批判・意見・助言などに踏まえ,何度かの補足・修正を加えて,本稿の成立をみた。一人一人のお名前は挙げないが,全ての方に謝意を表する。この間の諸情勢も念頭におき,そして何よりも,被災者への公的支援を求めて,11月30日から11日間にわたるハンガー・ストライキを貫徹した上野・東両氏をサポートする中で作られたものであることを,最後に記しておく。


[註]

*1)今日でも,宗教団体による被災者支援が行われ,彼らの中に「ヴォランティア」を名乗る者もいる。だが,その果たしている役割は,本質的に慈善というべきであると考える。このように規定することが,彼らの過去と現在における役割を正当に評価することになると思う。 ↑本文へ

*2)これが正字である。今日では「義援金」と書くことが多いが,「援」は,報道・教育における用字制限による当て字で,本来の語義を表していない。「捐」は金品を寄付する,なげうつという意味があり,行為としての「義捐」は寄付のことである。 ↑本文へ

*3)ヴォランティアの上からの組織化に対しては,更に厳しい眼を向けねばならない。今回の震災ヴォランティアの中には,行政・地方自治体の下部的存在,補完物的存在となって組織化されたものもある。これを国家権力の側からみれば,震災に対する国民の恐怖感を利用することで,危機管理体制を強化するのに役立つものである。震災時の自衛隊の派遣を通じて,軍隊である自衛隊が存在し活動することに疑問をもたせない(これが何年か前なら反対勢力が存在していたであろう。また本来救助作業に当たるべき救急・消防の存在と活躍がかすんでしまっているのはどういう訳だろうか)ことに始まり,オウム事件を口実とした破壊活動防止法の適用など,これまで戦後民主主義の下では,労働者・学生・市民などの大衆運動の力で阻止され,権力者の側では半ばタブーとなっていたことが,この時期相次いでなされようしていると考えるのは私の思い過ごしであろうか? (関東大震災のとき,いち早くしかれた戒厳令のもと,救助活動にあたった軍隊に対し,被災した首都の人々が親近感を抱いたことが,軍部の台頭−大正デモクラシーから昭和ファシズムへの転機−を可能にした一根拠となったことを想起して戴きたい)。また各地自治体・警察などによる“防災”体制構築の主眼が,秩序維持にあり被災者の生命・生活ではないことなど,有事立法をほうふつさせるものすらあろう。現在震災後2年を経て,かかる彼らの眼に,未だ生活再建のめどが立たてられないばかりか,死を選択せねばならぬ程に,加速度的に深刻化している被災者のおかれている現状が,映る余地が無いのも無理からぬことである。このことは,私たちが被災者となった時におかれるであろう情況を予示するのみならず,彼らが私たちに求めていることが,いつ如何なる時でもどのようなことにでも黙って従う,活かさず殺さずに甘んじることでしかないということではないのだろうか。 ↑本文へ

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