ヴォランティア再考
NHK人間大学『共生社会への道』の批判的解題を通して

1997/10/15

 近頃,ヴォランティアに関する本を目にすることが多いが,その多くは活動・事例報告的なものや,マニュアル・ガイド的なものであろう。そうした中,ヴォランティアについて論じたものを読むにあたっても,教科書的に利用しようとしたり,マニュアルとして依存したりするような傾向を免れない。ヴォランティアに参加する中から得たものを確認・検証し,さらにあるべき姿を探求してゆくにあたっての指針を示すものは,極めて少ないのが現状である。

 この10月からNHK人間大学で『共生社会への道〜超高齢化日本のボランティア〜』(講師:堀田力)が放送されることとなり,これに先立ってテキストが出版されている。これを通読してみると,様々な問題点が判る。そこで同書に対する批判*1を手がかりにして,現在のヴォランティアを取巻く情況にも目を配りつつ,そのあり方を改めて考察していきたいと思う。

 もっとも同書はそのサブタイトル通り,高齢者福祉に主眼をおいているため,震災ヴォランティアなど他の分野には当てはまらないものもある。そのため,一部は検討対象から除外した。その一方で,各自がヴォランティアで得たものをそれぞれの情況・立場に応じた問題意識へと高める手助けとなるよう,なるべく幅広い方面への問題提起を試み,その材料の提供を心がけた。

【理論の必要性とあり方】

 堀田は同書の始めに「テキストでは,若干理論の方を優先させました」(p3)というが,このよう な場合,いかなる“理論”が求められ,私たちはいかに利用すればいいのであろうか。ここでは,「共生」・「ふれあい」といったキーワードはあるが,全編を通じての一貫したテーマ性も不明瞭である。少なくとも“理論”というからには,一本筋の通ったものがなくては,その名に値しない。だが堀田はこれを示していない。そもそも数学の公式や物理学の法則などの自然科学の理論と同じには扱えないことはいうまでもない。ここで求められるのは,問題意識をもって現状を分析し,そこからあるべき姿や,そこに到る方向性を提起し,個々人の実践の検証の規準となり,経験を共有するための媒介となるものである。したがって,行動マニュアルのようなものとは全く質を異にするものである。

【共生と相互扶助】

 近年「共生」*2をテーマにした著作が各方面で多くみられ,同書も表題に「共生」をうたっている。堀田は〔精神的〕自立を人の本能として,その尊重を説いた後で,「助け合う事,漢字でいえば『共生』も,人の本能だということです」(p18)と「共生」を「助け合う事(=相互扶助*3:引用者註)」と同じものとしている。が,これは「共生」について何も説いていないのみならず,両者の関係についての誤解でもある。「共生」というのは,性・ジェンダーなどの差異,障害者/「健 常者」,民族などの多数者/少数者などの様々な垣根をこえて一緒に生きてゆくことであり,そのために,相互理解と尊重を前提に,既成の社会のあり方及びその構成員の意識の変革とを必然的に求める概念である。単に「共に生きる」というだけではないのだ。また相互扶助はそのための要件であり,そのあり方や方向性も規定されるものとして位置付けることが必要である。

 では,相互扶助はいかなるものか。言うまでもなくお互いに助け合う以上,助ける側と助けられる側は,時と場合によって入れ替わる可逆的なものである。そこで,助ける側に立つにあたって,その行為と共に,それがもたらすところの相手−−その行為の対象であると同時に,独立した人格をもった主体でもある−−にとっての意味について思いを致す必要がある。かかる意味において,堀田がヴォランティアを「相手の自立を援助するため」(p8)にするものとしているのは,活動の自己満足や自己目的化を厳に戒め,これを通して人間の尊厳に思いを致させようとする点で,同書でもっとも評価すべきであろう。

 また,助けられる側になった際,これを受け入れる心構え*4も同様に必要となる。家族・近親者からのそれはたやすいであろう。小規模で固定的なものであれば,同じ地域共同体内の者からのそれが次ぐであろう。だが,こうした特定の少数者に対する依存は,その負担を極限まで増大させる結果を招く。とりわけ,高齢者の介護において,これは深刻な問題となっている。かような情況下,一旦はヴォランティアを「精神面の充足を伴うサービス」として併置しつつも,「性交や出産,子育てや介護などの中核にある精神的交流」(p40) を錦の御旗にして「家庭の活動」を強調するのは,かかる現状に棹差すものである。

 それだけではない。堀田の場合,こうした活動が可能であることが「家庭」の無条件の大前提になっている。そもそもすべての家庭がこうした活動機能を,常にかつ継続的にもっているわけではない。このことに一切触れることなく「家庭における無償の活動には,自己存在確認の欲求を満たすという重要な一面があって,それが家庭内活動の本質であ」(p41) るとするのは,あるべき家庭像の押しつけ*5ですらある。こうしたところに彼の思想性が読み取れよう。

【「ボランティアの歴史」の虚構】

 堀田は,「恵まれた者や富む者が恵まれざる者や貧しい者を救済するという,縦型のボランティア活動」と「お互い対等な立場に立って,困った時に助け合う,横型のボランティア活動」(p51) の2つに分類し,後者の重要性を説く。前者は,近代資本主義社会の発達に伴う階級格差の拡大過程のものもそれ以前のものも,本質的には宗教的動機に規定された慈善活動というべきで,今日におけるヴォランティアの定義からは区別するべきある。*6

 次いで堀田は,相互扶助の例を日本史の中に求めた。(p51) ここでの彼の事実誤認*7はともかく,中・近世日本各地の農村社会にみられたこれら「結」・「講」などは,いずれも限られた地域の固定的な人間集団からなる,前近代的地域共同体を対象としており,これへの参加は何がしらの実質的強制力を伴った(これに参加せずに生活できない)ものであり,今日のヴォランティアの第一義である自発性によるものとは全く質を異にする。もちろん,担い手の意識も異質である。したがって,これをヴォランティアの名で同一視することもまた誤りである。

【社会経済的側面】

 同書は随所で阪神・淡路大震災について言及している。また,震災ヴォランティアの活動を撮影した写真をそえたりしている。その中で「孤独死」について述べた箇所がある。50代男性の孤独死の多さに着目し,その原因を「自尊心」や「おカネや地位に対する過信」(p22〜23)といった彼らの側の態度・意識の問題からのみとらえている。「孤独死」者がどれだけこうした意識にあったかは疑問の余地がある上,こうしたとらえ方は,その原因を「孤独死」者の自己責任に帰す点で看過できないものがある。すなわち,かかる意識を形成したところの,社会・制度的原因については,一切触れずじまいである。

 続いて堀田は,第3回で「三つの仕組みと人の幸せ〜市場財・公共財・無償財〜」(p25〜36)と 題し,経済的概念を通して,行政・政治との関係を射程に入れつつ,ヴォランティアの役割の位置付けを行なっている。人間の活動を,第1に「利潤や報酬をえるための活動であり,市場という仕組みで行なわれ」る「経済活動」,第2に「行政などの公共の機関による活動」である「公共の活動」,第3に「人や団体が利潤を目的としない活動…国際援助活動,政治活動や宗教活動,クラブ活動もそうです。子育てや親の介護など家庭の営みは,このタイプの活動の一つの典型で」ある「無償の活動」に分類し,これらがら生み出されるものが,各々表題のそれに対応するものとしている。(p25)

 ここで主に問題になるのは,後二者のあり方と関係である。堀田は,「公共財」について,政治権力機構によりなされる「立法・司法・行政」(p34) をあげ,さらに具体例として「警察活動や治安維持」をあげて論じている。そもそも国家は,諸階級間の利害調整をはかる機能をもつと共に,支配階級の利害を代表し,その担い手である権力者・為政者による体制維持の手段でもある。こうした機能は,主として支配階級・権力者・為政者の特殊利害を,全体的なものとして押し出すことによって成立するものであり,「公共財」や公共サービスのあり方は,かかる構造の中で規定される。その中で人民は,体制維持上の客体として位置付けられる。こうした中から,多くの先達の犠牲と努力のうえに,今日では,自由権−−「国家から○○されない自由」として表現されるもの −−のみならず,社会権−−その主たる生存権は,人間らしく生きる権利のことで,単なる生命維持のことではない−−までもかちとられ,あるいは認められるにいたったのである。日本国憲法第25条に示される,この社会権を堀田は「生理的欲求と安全*8の欲求」(p36) と理解し,権力者的観点から消極的解釈を行なっているのである。さらにそこから導きだされているのが悪平等主義であり,阪神・淡路大震災直後の配食の例を挙げ「もし行政が,この人には配るが,この人には配らないとか,あの人とこの人では違った物を配るということになれば,すぐに文句を言われます。行政がもっている公共財で提供するのですから,公平ということがいちばん大切なのです」(p46) とするところに示されている。だが私たちは,この堀田の例の妥当性に対する疑問の次元にとどまらず,個々人の経済活動において賄い得るものにする基盤そのものを,この「公共財」の働きとして,積極的解釈をするものでなければならない。*9

 堀田は,こうした経済的分析に「人の幸せ」(p26〜8)なるものを,無媒介に結びつける。この内実については言及しないが,問題は,かかる経済的分析の具体的適用における錯乱である。公的介助保険制度の成立を前提とする仮定条件のもとで,福祉ビジネスの発展を展望し,介護サービスも業者が担うものと想定する。そしてこれを「公共財は自らサービス業務を行なう時,競争がないからサービスが悪くなりがちです…委託は競争関係にある複数の業者やNPOのなかから,もっとも評判のよいものを選び,期限を区切って行なうのがよいと思います」(p66)などと述べている。これは,営利企業とNPO(非営利団体:non profit organization)を同一視し,市場経済的競争の中に同列におこうとしているのである。そもそも公共性の高いもの,利潤追求の対象としてふさわしくないものを,類似業務を行なう営利業者と競争させることが,見かけの利便性増大がみられることはあっても,その背後で,基盤整備をないがしろにする例*10は,少なくない。

【「心」−価値観の多様化の中で】

 阪神・淡路大震災を機に,ヴォランティア参加者の急増をみ,95年を「ヴォランティア元年」とする呼び方もなされた。堀田もこれに触れ,明るい将来展望・期待(P97〜8)を寄せている。だが,単なる量的増加だけでこうはいえない。この多数の参加者の存在は,これまで参加しなかった各層からの参加をみたことからも,必然的に,その内実においても多様なものになった。この多様性の付与こそが,この間の画期的意義の一つである*11。もちろん,ヴォランティア活動のサービスの受け手の情況もまた多様であり,この多様性を担い手のそれで引受けることが,より可能になったと,総体的分析を行なうべきである。老若男女様々な担い手の存在は,当然にもその活動能力・条件(体力・時間・資力・技能・知識など)だけでなく,その価値観も多様であることを意味する。受け手の多様性はニーズの多様化を生み出す。「心」を論じる場合,これを前提としなければならない。自らの価値観の押しつけであってはならないことはいうに及ばす,受け手の側も,担い手の多様性のなかに,自らの存在意義の確認が可能になる。心身障害者の場合,その障害の程度・種類は千差万別であることはいう迄もないが,震災被災者もまたその情況は多様である。高齢者福祉においても,それまでの人生は様々で,心身の情況はもちろん,世代・職業などにより価値観もまた多様である。また,近い将来高齢者の仲間入りをする世代を考えるならば,従来のそれにはなかった意識情況のヴァリエーションが加わることになり,よってその多様性は増大することはあっても減ることはない*12

 相互の多様性が,自他の差異を尊重させること,同類者と巡り合う可能性を見いだすことなどを可能にし,その中で,自らの人生の意味を確認し,人間の尊厳に思いをいたさせしめることが,両者の関係における「心のケア」の成立用件となる。

 以上のように,多様性を前提に,これを動態的に理解・分析することが肝要である。

【「心の教育」の意味するもの】

 ヴォランティアが受け手と関わる場合,対等の個人としての関係をとり結ぶ。これが両者の心の通わせあいの要件である。だが堀田は「心の教育」について述べたくだりで,これとは異質の問題を,ほとんど同次元でとらえるという錯誤を犯している。堀田は「知識人やボランティアのリーダーたちの間では,『ボランティアは自発的にやるもので,教育で強制するものではない』などと言って反対したり,『心の教育を国が押しつけるのは危険だ』という警戒感を示す人がいます。しかし,だからといって,人間教育をしないで,知識教育ばかりしていればいいのだということにはならないでしょう」(p121)というが,その反対・警戒の根拠について語ることはしない。また,それについて思いをいたすこともできないといっていい。「人間教育」と「知識教育」の対置は,問題のすりかえである。私はこうした堀田の態度・見解に対して,単に警戒するのではなく,旗幟鮮明に反対したい。

 そもそもここでいう「教育」とは,国家による公教育である。したがって,国家権力の側の利害に規定された方向性・イデオロギーをもつ。労働者としての教育の担い手と,その受け手たる生徒との関係にも,評価を通じて権力作用が生じる。こうした中で,教育の名のもとに国家権力による人の内面への介入をはかるのである。また,この排除・拒否を求めることが自由権の一環であること−良心の自由−を忘れてはならない。すなわち,国家的利害と沿わぬ思想・信条をもつことを阻むもの,言い換えれば一種の思想弾圧*13 を導くものである。こうした諸関係の中で「心の教育」をとらえなおせば,その一見もっともらしい,ややもすれば美名にすら映る名称とは裏腹の危険性*14 は明らかであろう。このように考えていくと,この問題が単に学校教育の枠にとどまらない,一般国民をも含めたものであることが理解できよう。

【「企業・労組とボランティア」から】

 堀田は第10回で「企業・労組とボランティア」と題し,これを事例列挙を中心に取上げている(p102〜10)。  そもそも企業の社会貢献が日本でさかんにいわれるようになったのは,バブル経済期である。企業は余剰金活用をすすめる中,その投資先の選択肢の一つとして,ヴォランティアやその援助を加えることとなった*15。もちろん,企業が利潤追求を本質とする以上,あくまでそれと矛盾しない範囲でのことである。めざすところは,イメージアップ,宣伝,市場確保,顧客囲い込み,人材確保,地域社会との融和などがあげられる。

 労働組合とヴォランティアの関係を考えると,総評解体・連合移行という,労働界の再編過程に本格化したという,歴史的背景に行き当たる。これが労働運動の変質と相まって,労働者意識・自覚の希薄化を促進することとなり,従来の企業別組合をはじめとする日本的労使関係にも規定され,労組ヴォランティアが企業ヴォランティアの補完物となった面もある。しかし,年功序列・終身雇用が解体の方向に進みつつある中,企業内部の競争原理に一元化された価値観に対し,使用者的立場から多元化を求めるようになってきた。すなわち,一部の競争勝利者以外には,社外に活路を見いだしてゆくことを求める。その論理は,いわゆる「リストラ」促進に利用されているものに他ならない。だが,労働者の側にあっても,かかる制約や規定性を乗り越える形で,自らの勤める企業を取巻く環境や,企業の外に眼を開き,地域社会にとけこんでゆくことは,自らの社会観・世界観を拡大し,新たな自己発見や自己回復をもたらすものであり,かかる役割をヴォランティアへの参加が可能にするであろう。

【自発性から主体性へ】

 このようなヴォランティアの役割は,企業労働者のみならず,老若男女各層に当てはまろう。ヴォランティア活動への参加が自発性によるものであることは繰返す迄もないが,この活動する自己を支え,時にはこれを変革し,その中であり方や方向性を,さらには新たな価値観や社会観を探求してゆくのは,主体性の働きである。自発性の次元から主体性の次元へと,ともに飛躍しようではないか。

 最後に,筆者が皆さんに求めるのは,この拙稿への同調ではなく,健全な批判精神のもと,自らのヴォランティア参加を省みて,自己確認の一助とされることと,あるべき方向性についての見解や展望を探求されることである。


[註]

*1) 批判という行為を通じて,それまでの自らがそなえる以上のものを果実として得るための態度を示唆するものとして,以下のようなことばがある。
「批判とは,真実の自己にたいする責任の遂行でなくてはならない。それは自ら信じるところの真理の場所に他者の姿を浮きあがらせて,他者に自己批判をうながすという誠実さの表現でなけれはならない。自己に誠実である限りで他者に批判すべき責任を感じ,この批判の誠実さの程度につれて,自己批判の責任を感じる。これが真理に到達するための弁証法的相互批判における真実の主体的態度である。この真実の主体性にあっては,他者を批判することは,自己批判のための手段であるにすぎない。」(梯明秀『資本論の弁証法的根拠』) ↑本文へ

*2)「共生」の概念をヴォランティアのあり方と結びつけて論じたものとして,花崎皋平を紹介しておく。彼は『アイデンティティと共生の哲学』(筑摩書房,1993年)で,1989年の「水俣宣言」のしめくくりから,越境する政治行動,支援・連帯行動を通じて「人びとは,自分たち自身の二一世紀をつくりだす『ピープル』となるのであ」り,それらの諸行動は現存する「分断を乗り越えるあたらしい『ピープル』を,次第に成長発展させるだろう」と,共生へのみちすじとその主体たる「ピープル」の概念について述べる。その「ピープルになる」こととして,「共生的な隣人愛や同胞感情を,身内同士のせまい枠から人類と地球のレベルまで推しひろげる想像力と理性能力」をはじめ,「自力依存の意志と気力」,「共和的精神」といった要請(p263)を前提とし,理性万能主義を批判しつつ,他者に対する可知性の限界を認識し「相互主体性の倫理」への接近すること(p264)を説く。ついで生活空間を包み込むシステムの構造的関係自体による加害可能性を隠さないことを,「ピープル」の連帯の出発点とし「ナニサマでもない者が,そのままで生きやすい関係を作ること」を説く。さらにこれに関連して,受苦可能性(vulnerability)を説く。これは,久重忠夫が対人関係の倫理学の出発点に位置付けたものを,金子郁容の理解を,その楽天性に一定の批判を加えつつ,花崎がヴォランティアのあり方に適用したものである。そこから花崎は,「現代世界をトータルに見ることをやめて,矛盾がしわよせされている末端の部分において,とりあえずボランティアでもやって自分も心地よくなり,相手からも感謝され,小さな満足感を得てますます現状肯定に埋没する……そういう一種の思想的・行動的引退としての,あるいは良心の痛みを和らげるアヘンとしての,ボランティア」(p289)のあり方に対する批判を導きだした。そして「『ピープルとしてのアイデンティティと共生』を基本に据えた社会,という理念において,その思想的内容を強化することが必要であるように思う」(p294)と説く。  ↑本文へ

*3) 「相互扶助」が,社会思想史上重要な意味をもつのは,19世紀のクロポトキン以来といえる。彼はその代表作『相互扶助論』(“Mutual Aid”)で,人間は本来相互扶助の本能をもっており,それによって人類が栄えたが,時代が下がり社会が発達する中で,これが次第に失われたと説き,その回復を求める。この理論は,当時の社会思想で優勢であった社会進化論に対する,根本的批判となったのである。これは,ダーウィンが唱えた,生物における進化の学説を,そのまま人間社会に当てはめた見解である。そこから社会ダーウィニズムとも呼ばれるが,ダーウィン自身がこれを唱えたのではなく,代表的なのはスペンサーである。すなわち,社会進化論は,人間社会においても,生物界にみられるのと同様に生存競争が支配し,優れた者・強者が劣った者・弱者を征服・支配して優位に立つものであるとして,近代資本主義社会における競争原理や不平等,戦争などを合理化するイデオロギーとなったのである。
 また,現代において,共生と相互扶助の関係を考える場合,こうしたクロポトキンの思想にも,生存競争の主体を生物固体ではなく種とみなせば,その枠組みを脱していないと解釈できる。今日,生物多様性・生態系の保護が要求される中,その限界を見ておくことも必要である。したがって,人だけでなく環境との共生にそった相互扶助のあり方が,求められるということになる。 ↑本文へ

*4) 賃金(労働時間を第一の尺度とする)とは異なる「謝礼」を,時間換算するもの,およびこれを制度的に整備した「時間預託」(p82〜91)も,その一例とはいえないだろうか。一方で,異質な活動の交換を容易にする媒介としての可能性も見いだせないだろうか。 ↑本文へ

*5) 家族を労働力の再生産の基礎と位置付けることから,これが機能しうるものを規準にすえ,あるべき姿とし,かくあることを要求する。同時にその枠から外れるものを差別・排除する。最近,男女共修がすすめられている高校家庭科教科書の検定過程で,単身者向けの料理の写真が,いわゆる“家庭料理”へ差し替えられた際,こうした批判がなされた。
 また,近代以降の日本において,家庭を論じる場合,忘れてはならないのが,制度およびイデオロギーとしての「家」である。明治憲法下の旧民法で制度化された「家」は,戸主を中核とした家父長支配の構造に,家庭を再編したものである。戸主の地位は一人の男子のみが相続するもので,女性は法的に無能力者と規定され,家父長ら男子への絶対的服従を強いられた。これは,近世の武士社会の仕組みを,全階級に拡大したものであり,それを正当化したものが儒教的倫理であった。日本国憲法下の現行民法ではこの制度自体は既に廃止されたが,依然その影響を残している。そしてこの「家」は,天皇を究極の家父長とする擬制家族としての近代天皇制の基盤でもある。 さらに,日本に限らず東アジアの国・地域においても,家父長制的イデオロギーは残存している。こうした場合,卑属・女性への家庭への重い負担から自由ではない。これについては,高齢者・年長者の意識変革が必要になる。韓国・台湾においては,日本の植民地支配において,前近代的秩序を一定温存しつつも,やがて体制強化を図るなかで,日本式「家」の強要−−「創氏改名」の本質−−がなされ,日本敗戦後も30〜40年余に及ぶ軍事独裁政権のもと,その体制維持手段としてこれらが温存されてきたことにもよる。一方,かかる体制・イデオロギーの打破を早くからかかげた毛沢東思想を指導理念として成立した中華人民共和国では,社会主義国家建設の過程で,人民公社のように新たな共同体での福祉政策も図られたが,文化大革命をピークとした相次ぐ大衆動員政策を経た後の「改革・開放」政策の現在,これらは後退・解体し,依然家父長制的イデオロギー志向が根強い。また,無報酬の奉仕には,社会主義国家建設のための労働奉仕の意味が付与された。(現代中国語で,volunteerの訳語として「義務労働者」をあてる向きもあるが,これはかかるもののことである。そこで「自愿参加者」(愿=願)を用いる)。このようにみていくと,日本を含めた東アジアにおいてヴォランティアの定着可能性を考える場合,儒教的倫理に支えられた家族制度及びイデオロギーは避けては通れぬ関門となろう。  ↑本文へ

*6) 拙稿「ヴォランティア考−震災を通してみた過去・現在・未来−」(96年12月)参照。
 慈善(charity)との区別としては,これが信仰・価値観などを共有していることを前提とするか,他者が自らのそれに同化することを企図する作用が働くことに求められよう。 だが,ヴォランティアの主体性を,宗教的概念で説明しようとするものがみられる。こうした分析は,その現象の一面を説明できても,本質を説明できるものではない。仮にできたとしても,一面化・矮小化されたものであろう。過去にNHK人間大学で放送されたもののなかにも「被災地において真に救世主の役割をはたしたのは宗教家たちであるよりはこれらのボランティアたちであった。和辻哲郎流にいえば,まさに『慈悲の道徳』がボランティア活動という形で展開されたものであるともいえそうです。和辻倫理学が強調する人倫のネットワークが,今日のボランティアの精神の核をつくっていたわけです。」(96年4〜6月放送『日本人の宗教感覚』p100,講師:山折哲雄)という例がみられる。  ↑本文へ

*7) 「結」は,村落で労力交換を目的とする共同労働であり,日本各地にみられたもので,その異称も多い。親族・地縁が単位で,内容は多岐にわたるが,主として田植え・稲刈りをはじめ,餅つき・屋根葺きなどに及んだ。「講」は,同じ信仰をもつ者が集まってできた集団である。その中から,寺社の修理や参詣のために費用積立を行なうようになり,やがてこれが宗教的性格を失って,純経済的なものとなり,「無尽」はそこから発生した。 ↑本文へ

*8) 「安全」という場合,個人の日常生活におけるそれと,国家や社会体制にとってのそれとではその内実は異なる。後者の中心は体制維持にある。   ↑本文へ

*9) 阪神・淡路大震災を機に,被災者の声から生まれた「公的支援」は,この「公共財」概念を,個人各々の生活基盤整備として広く積極的に解釈することで,理論的位置付けがえられる。  ↑本文へ

*10)80年代の「行政改革」の中,公共性の高い事業を民営化する正当化論理として「民間活力の導入」がいわれた。電電公社・国鉄の民営化はこうした中ですすめられた。とくに後者では,巨大労組・国労解体を策して分割がこれに加わった。JR移行後,あくまで利便性の増大は他機関との競争の手段としてであり,一方で,保守整備は合理化・省力化のもとでおろそかにされているとの指摘もなされている。また労働強化も進んでいる。既に,事故の発生情況や地方ローカル線切り捨てなどからも明らかであろう。また,現在策されている郵便事業民営化についてもあてはまろう。  ↑本文へ

*11)拙稿「ヴォランティア考−−震災を通してみた過去・現在・未来−−」(96年12月)参照。 ↑本文へ

*12)この多様性増大の中で,堀田が述べる「グループホームの試み〜血縁から結縁へ〜」(第11回,p111〜19) の可能根拠と展望が生まれると位置付けられよう。  ↑本文へ

*13)昭和戦前のファシズムの時代の思想弾圧は,剛柔両面からなされた。前者は治安維持法を利用してのそれであるが,後者は「思想善導」の名のもと一般国民対象に進められたことを,またこれが,戦争遂行のための国家総動員体制づくりの前提となったことを想起されたい。 ↑本文へ

*14)最近,神戸連続児童殺傷事件(97年3〜6月)を機に,政府・文部省が「心の教育」を喧伝するようになった。これは,受験戦争と管理教育の中,均質的同年齢集団にあって,「いじめ」などにみられるような,歪んだ人間関係を生み出しているところの,現在の中学生がおかれている情況を省みることなく,その精神の荒廃という一面的現象を取り出して問題にする形ですすめられ,その矛先を教師にむけてその責に帰せしめ,住民に過度の恐怖感や不信感をあおり,治安維持への志向を高める作用をはたした。 ↑本文へ

*15)多くの読者をもつ,金子郁容著『ボランティア』(岩波新書,1992年)も,こうした時代背景と観点から出発しており,サブタイトルの「もうひとつの情報社会」は,彼の専門であるネットワーク論を利用して,その理論付けをめざしたことを示すといえる。同書に関しては,文章中の片言隻句を道徳律的に利用する向きが少なくないが,かかるコンテクストを踏まえた上で,その中で読み取るか,あるいは,そこから取り出して別個の意味付与を行なうかして利用すべきである。*2の花崎の例(前掲書p289〜290)は,後者の数少ない成功例といえる。
 サラリーマンのヴォランティア参加の意味として,余暇利用,活動を通しての技能獲得・保持などがあげられる。(cf『日本経済新聞』95年4月〜96年5月,毎土曜日「ボランティアーズ」で,多岐にわたる例が紹介された。この最初と最後の5回は阪神・淡路大震災関係である。)  ↑本文へ

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